茂木健一郎の今日のツイート
脳科学者の茂木健一郎のツイッターをフォローーしている。毎日余りに沢山ツイートしているので、全部に目を通しているわけじゃないけど、ツイッターを開けばザッと目を通す。さっき公園で弁当を食べながら見たツイートは、充分に考えるに値する。以下、引用⬇︎
「そもそも、人類にとって、「より良い生活」とは何だろうか? 今までよりも収入が多くて、より多くの物質に囲まれ、たくさんのエネルギーを消費することが「より良い生活」なのだろうか?
世界は良くなっていると分析できるためには、そもそも「良い」ということが何を意味するのか定義されなければならない。人類はそろそろ、「より良い生活」という目標を、地球の自然環境と調和したかたちにアップデートする時期に来ているのかもしれない。」
モノや食べ物が充分になかった時代は、それを満たす事が、幸せの第一にくるものだったかも知れないね。快適な衣食住こそが、幸せの最初の条件。その為には、地球環境のことなど何の考慮もしなかった。もうやりたい放題。人間にとって便利で快適なものが一番の条件。その為には、沢山のお金がある方がいい。そんな価値観で来たわけだ。勲章をぶら下げている様に、有名大学卒だとか、有名企業の人だとかに、目の色変える人を沢山見て来て、ウンザリした。植民地時代は、植民地にした国を食い物にして、富み栄えた訳だ。欧米諸国はさ。より贅沢こそが幸せ競争の一番だって思わされてきた。実際は全く違うのにね。多様な価値観がある事、多様な価値観をそれぞれ尊重すること。物欲は、最小でいい事。芸術があるじゃないですか。例えば最近じゃマチスの絵。実に雑に描いてあると思えるのに、凄く惹きつけられる。なんともいい。でもどうしてその絵がいいのか、私には説明が出来ない。見るたびに、いいなぁと思う。マネして、描いたりする。しかし絶対的にマチスには、かなわない。グレン・グールドが弾く、バッハのゴールドベルグ変奏曲。もう何100回も聞いたのに、また聞きたくなる。凄くいい。人の目指す究極のものは、芸術なんじゃ、ないかなぁって思う。物質の様に、価値はすぐには分からないけれど、それが分かった瞬間、違う世界に行ったと思うもの。その至福感は、地球環境を破壊しないだろうしね!
展示会
5月11日から5月25日まで、銀座の教文館・3階ギャラリー・ステラで、「根津教会創立120周年、礼拝堂建設100周年」を記念して、教会関係の展示会及び17日金曜日は、ミニコンサートをやります。根津教会にあった手書きの「聖書かるた」を私が作り直し、手書き聖書かるたと、新たに制作した私のかるた、私が作った塗り絵用の聖書かるたを、教会学校に来て下さる生徒たちに色を塗って頂いたかるたを並べて展示いたしました。その関連から、ワークショップとして、来場して下さった方々に、塗り絵をして頂くという企画です。それ以外は、私が作ったポストカードを並べました。
1年、この展示の為に、ヒマを見つけては、制作していた訳ですね。おヒマな折りには、銀ブラのついでにのぞいて下されば、幸いです。
砂の女を再読してしまう
「安倍公房とはだれが」を読み終わると同時に、うちにあった安倍公房全作品を引っ張り出して、「砂の女」を読んでしまう。何十年ぶりかで、読んだわけだけれど、違和感は全くなくて、今刊行されたばかりの小説のように新鮮だ。発表同時は、パソコンもインターネットもない時代だ。日本で最初にワープロで小説を書き、フロッピーに保存したのは、安倍公房で、その長編「箱船さくら丸」の宣伝文句は、その事を唱っていたけれど、今はそのワープロもフロッピーディスクも廃れて、作品は、ネットのクラウドに保存し、見るのもダウンロードするのも、インターネットだ。隔世の感があるね。しかし、小説自体はまるで時代を感じさせない!初めて読む用な気分で、ページをワクワクしながらめくった。「砂の女」はすぐに映画化されて、映画も評判になり、数々の賞を取ったけれど、今その映画を見たら、古臭くてどうしようもないだろうね。映像技術は物凄い発展して、画像の美しさは、昔と比べてようがない。しかし天才級の人が書く、活字芸術は、全く古くならない。絵にしたって文章にしたってそこが、機械技術を使わない芸術の素晴らしいところだろう。何度でも立ち返ることができ、繰り返し感動することができる。
上の写真は、「砂の女」の最後のページです。
安倍公房とはだれか
大江健三郎のエッセイ
「定義集」を図書館でダラダラ読んでいたら、安倍公房関連の本を読みたくなり、娘さん安倍ねりの安倍公房伝を読みだしたけれど、その隣にあったこの「安倍公房とはだれか」が刺激的な本だったので、借りてきた。
私の十代後半から二十代、三十代前半ぐらいまで、日本の小説なら、大江健三郎と安倍公房だけで充分だというほど、この二人の作家は、抜きん出た存在で、他の小説を圧倒していたと思う。大江健三郎の文体の奇妙さは、こんな日本語を考えられないと読むたびに思っていた。安倍公房の作り出す状況の摩訶不思議ぶりには、いつもワクワクした。安倍公房の「砂の女」は、傑作でしょう。この小説一編で、安倍公房はノーベル賞を受賞するべきだったと今でも強く思う。
そんな私の知っている安倍公房とは全く違う安倍公房が「安倍公房とはだれか」に書いてあって、安倍公房の活動の全体像が分かってきた。小説書きとしての安倍公房ではなく、ありとあらゆる方法を使って創作をするマルチメディア・アートの先駆者としての安倍公房像が書いてあった。音楽劇、ラジオドラマの製作者、映画、演劇の作者に飽き足らず、演出、はては安倍公房スタジオを作り、役者の演技指導までしている。よくこんな事をしながら、小説を書けたもんだ。しかも、奥さんの安倍真知さんも、素晴らしい才能がおありで、舞台の美術を彼女が手掛け、安倍公房以上の才能があると絶賛されている。彼のマルチメディア・アート時代は、時代の先導者として、世界中から、賞賛されていた。しかし、彼はどうしてもノーベル賞が取りたかったし、取れるはずだったと思う。晩年は、その為に、騒がしい世界を離れ、小説一本に絞って制作にいそしんでいたらしい。晩年は、家族から離れもした。晩年の彼を支えていたのは、女優の山口果林さんだった。ずっとその事を公表していなかったけれど、20年を経て、「安倍公房とわたし」という本を書いて、安倍公房との日々を綴っている。
天才に惚れ込んだ若き女優と、老作家。
この本の最初のグラビアページには、老作家が写した山口果林の裸体の写真も載っているから、驚く。
山口果林がこの作家との生涯を賭けた決意の表れなのかな。
まあ、スキャンダルが好きなところは、許し下さい。